目に見えない関係(「走れメロス」再読後に書きたくなった駄文)

深い愛情を目の当たりにしたときや、誰かのいさかいを見ているとき、それに勘違いやすれ違いを感じてしまった時に、僕は「目に見えない関係」ってものについて考えてしまう。

僕たち人間同士の間には何かつながりがあって、その関係性は「愛」とか「友情」とか「憎悪」とか色々な名前がついているけれど、それは本当に別物なのだろうか。

そもそも、本当にそこに僕が思っているような関係は存在するのだろうか……。僕は時々それがわからなくなる。

家族の愛情や親友との友情といったかけがいのないものさえ、その存在を疑いそうになって……怖くなってそこで考えるのをやめる。

どんなに心を揺さぶられる関係であっても、僕たちはそれを実際に目にすることも、聞くことも、口に入れて頬張ることも、触ることも聞くこともできない。

それは五感の全てから感じ取れるとも言えるけれど、それはあまりに実感を持たない感覚だから、第六感を使っているとでも言った方が正しいように思える。

僕たちを取り巻いている関係性は、どれも僕たちに与えられた五感だけでは感じ取りきれる物ではない。

だから僕はその関係性を疑ってしまって、自分に優しくしてくれる人が実は下心を持って接しているんじゃないかとか、そんなどうしようもない妄想にとらわれてしまったりする。

無償の愛とか、そういう尊い物を急に信じられなくなってしまって、薄暗い憂鬱の闇の中に迷い込んでしまう。

 

僕は小学校の時に不登校を起こしている。二年以上も学校にほとんど行かなかった。両親と何度も言い争いをした。何も胸に響いてはこなかった。

その時は今以上に目に見えない関係が怖くて、人間不信とも呼ぶべき状態に陥っていた。

誰一人として心から信じてはいなかった。両親の愛に気づくには僕は幼すぎて、友人の心配に気づくには鈍感すぎた。第六感は麻痺していた。

どんなに心躍る物語を読んで興奮しても、それが現実にはありえない物だと心のどこかで冷めていた。

それが虚しいとやっとわかったのは、中学校に入ってからだ。やっと第六感も人並みに働くようになってきて、人と人とのつながりが目に見えずとも感じられるようになってきた。

だけど、そうなった今でも、目に見えない関係が怖くてどうしようもない時がある。

信じられなくて、驚くほどに気味の悪い闇の中に閉じ込められてしまう時がある。

五感で感じ取れないということの不確かさが、気づいたら消えてしまうもののように思えて……怖くてどうしようもない時がある。

信じたいとどんなに思っていても、裏切られることを同時に考えている自分がいる。心のどこかで予防線を張っている自分がいる。

これは僕が不登校を起こして、人間不信に陥っていたからなのだろうか。

それもあるだろう。だけど、それだけではないはずだ。

僕たち人間は、誰かを信じきることはできない。心のどこかでは必ず疑っているはずだ。

 

太宰治の小説「走れメロス」では信じようとする人間の心が描かれている。でも、どうだろう。セリヌンティウスはメロスを果たして本当に一度も疑わなかったのか。「絶対にここに戻ってくる」本当にそう信じきれていたのだろうか。読者はメロスが困難に襲われるたびに、彼が戻って来れないのではないかと心配になる。

確かに創作上の人物であるセリヌンティウスに疑心はないかもしれない。だが現実の我々は疑っている。

だから結末を迎えたときにほっとするのではないのか。本当に信じ切れていたならば「当然こうなる」と自信を持って言えるはずだ。

でも我々はそうじゃない。悲しいけれど、そうではない。

だから「走れメロス」は名作として謳われる。僕たち現代人が王様のように信じられない気持ちを心のどこかに持っているから、あの作品は成立する。

 

さて、話を本題に戻そう。

そんな風に現実の関係性でさえ疑ってかかる我々現代人に、インターネットを使ったコミュニケーションの場が与えられた。

ブログ、ツイッター、ミクシィ、スカイプ、掲示板……コンピュータに疎い人でも、聞いたことくらいはあると思う。それらはどれもコミュニケーションをとるためのツールである。

でも、少し考えてみて欲しい。

現実の関係性でさえ信じられない僕たちが、会ったこともない人たちを信じられるだろうか。心から信じられるはずはないのだ。

それだというのに、現代人はそういったコミュニケーションの場を利用しようとする。なぜだろう。現実の人間より、よほど信じられないではないか。

だが実際にそういう場を利用してみると、現実の世界よりよほど暖かい交流の輪が広がっているように思える。

現実と違って、そこには何のしがらみもない。顔も、地位も、年齢も、名誉も、性別も、そこではただの記号でしかない。相手が現実にどんな人間であるかは、そこでは重要ではない。コミュニケーションがとれて話が合えば、それで構わないのだ。なんて気楽な世界だろう。

その場だけコミュニケーションをとって、お互いに気持ちよく、楽しくおしゃべりをして、飽きたら、飽きられたら、もしくは忙しくなれば、また違う人と話せる。

趣味の合わない人とは最初からコミュニケーションをとらない。驚くほどに明快な世界だ。

来る者は(話が合えば)拒まず、去る者は追わず。それはコミュニケーションをとる場が現実に少ない現代人にとってみれば最高のツールとなっている。

 

ユビキタスという言葉がある。それが実際に何であるかは意識はしないが、いつでも、どこでも、だれでも用いることができる物のことを指す。

先ほど挙げたコミュニケーションの場はこのユビキタス化を急速に進めている。

携帯電話が普及し、それが改良されて、現在ではインターネットをパソコンと同様に使うこともできるようにもなった。そうして、いつでも、どこでも、自由に気楽にコミュニケーションを楽しめる場が提供されるようになった。

人間は現実とコミュニケーションを乖離させてしまった。現実の世界でのコミュニケーション――たとえば、友達と遊ぶだとか、家族での会話だとか、そういったものより楽しくて気軽で手軽にコミュニケーションの取れる世界を作り出してしまった。

僕の友人は、そのほとんどが一緒に遊んでいても自然とスマホに手が伸びてインターネットに接続したりラインを確認したりする。

もっとひどい人になると、目の前に友達がいても、ずっと携帯電話の画面に視線を落としていたりする。

話しかけても現実のコミュニケーションはてきとうだ。うん、とか、ああ、とか、そんな返事が返ってくるだけ。

彼にとってのコミュニケーションの場は現実にはなく、携帯電話の中にある。

 

このように現代人はコミュニケーションと現実を乖離させてしまった。

だから同じ電車に乗り合わせた人と話そうなんて気にもなれず、各々が自分の世界に閉じこもる。

旅の道中で知り合いができるなんてことも少ない。そもそも話しかけない。

僕の友人が働いている学習塾での話を聞いた。子どもたちは休憩時間に会話がなく、それぞれ本を読んだりゲームをしたり携帯電話をいじったりしているそうだ。

このままでは一期一会という素晴らしい言葉はいずれ消え去ってしまうだろう。そうなる前に、千利休の説いた茶の心得を思い出そう。彼が大切にしたのは出会いだ。

インターネットの中で我々はそれを大切にできているだろうか。先ほど、来る者は拒まず、去る者は追わず、と書いた。

現実ならどうだろう。急に友達がいなくなったら? 何か事件に巻き込まれたのかと心配するだろう。

だが、現実と乖離したコミュニケーションの場にそんなものはない。

いなくなったら、いなくなった。元からそこに存在しなかったように扱われるだけだ。

 

千利休の説いたような一回一回の出会いを大切にしようとする心はインターネットの場にはほとんど見出せない。配信者が動画を投稿しなくなっても半年もしたら忘れてしまう。ブログの更新が止まっても半年もしたら忘れてしまう。まるでテレビに出なくなった芸能人のようだ。

それは本当に暖かな世界だろうか。簡単で、便利で、気楽で手軽なツールであることは確かだ。だが、そこにある人間同士の関係性は、現実での関係性とは大きく異なっていることを理解しなければならない。

千利休が大成した茶道の精神は「再びその人に会えないものと思って誠心誠意を尽くす」ことだ。

ユビキタス化を進めた結果、便利にはなった。人間はコミュニケーションの場さえも自らで作り出して支配できるようになったのだ。

だが、いい加減、僕たちは現実と乖離してしまったコミュニケーションの場が何であるのかをちゃんと見極めねばならない。現代の日本人が忘れてしまった一期一会の意味を、手遅れになる前にしっかりと思い出さねばならない。

 

第六感を働かせよう。そうすれば目に見えない関係性を感じることができるようになる。

そのためにはまず、現実をよく見なければならない。

現実を見れなくなってしまった人間は、これから先、さらに加速していく情報化の社会の中で大切な物を失ってしまうだろう。

見えない関係を感じ取ることは非常に難しい。どんなに信じようとしても不安になる。現実と乖離したコミュニケーションの場などすでに現実ではない。

不確かな物を信じることは怖い。

だけど、その不確かな見えない世界に目を向けよう。

僕たち現代人がインターネットを使ったコミュニケーションの場を使用するのは、それができるようになってからだ。

第六感をちゃんと働かせることができるようになって始めて、インターネットの世界は現実と乖離せずにコミュニケーションをとれる素晴らしいツールとなる。

 

情報化が進む社会の中で、一期一会の意味をしっかりととらえることができるようになろう。それは現実と乖離してはならない。

インターネットを通じていても、相手は生身の人間であることを思い知ろう。心にもない言葉を投げかければ、それは誰かを傷つけることになることを知ろう。

コミュニケーションの場は、全て現実であるように思わなければならない。

情報化の進む社会の中で、見えない関係はわかりやすい形を持とうとしている。それがコミュニケーションの場だ。

インターネット上のそういったツールには決まって「友達リスト」なるものがある。携帯電話の「電話帳」、ラインの「友だち」、ツイッターの「相互フォロー」の数も同様だ。こうやって自分を取り巻く関係を見えるようにしている。

だが全てを視覚化できるはずなどない。視覚化できない世界を感じ取るための第六感を使おう。

そうすれば、千利休の言葉を当然と受け取れるようになれるはずだ。

一期一会。再びこの人には会えないのかもしれない。

その精神を得れば、どんなに情報化が進もうと大切な物を見失わずにすむはずだ。

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